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『岩底の雑蟲』

 ――雑蟲共め……。
 会社が休みの日曜日、私はごろんと庭石をひっくり返した。
 裏で蝟集蟠踞する連中を駆除する為に。
 死んだ鮎の腹を思わせる湿気った色の岩質に、醜悪な群れがびっしりと寄宿している。犇めく背殻が汚穢な粘液を滴らせ、暗褐色の触角が便所束子の如く密集。風を受けて蠢く。深緑の芝生に逆様で乗せられた一抱えもある安曇川石の裏は、まるで腐爛死体の毬栗頭皮を見せつけられるような惨い有様になってしまっている。
 ぶよぶよと水膨れした赤茶色の米粒の群れ。ゴム手袋を嵌めた指で潰すと苔臭い体液を滲み出させる軟弱な矮躯から、退化した産毛状の針をまばらに生やし、もぞもぞと蠕動しながら緩慢に岩肌を降りていこうとしている。
 それらを乗り越えてカササッと俊敏に這っていくのは、細長い足を放射状に生やした直径二、三ミリ程度の硬貨型の蟲達だ。硫化物中毒による死斑に似た忌まわしい緑の胴体から、関節の見えない畜毛に似た脚を大量に広げて盛んに前後させている。
 蛭状の口吻でもって貼り付いている者共もいる。そうやって岩石の裏の汚物に塗れた乏しい栄養素を摂取しているのだろう。転がした時点では擬態によって砂利にしか見えなかったが、陽の光を当てられていると苦しそうに藻掻き出してみるみる変色、表皮を裂いて内側から捲れ上がり、腫瘍の如く膨張していく。最後には疣だらけの奇怪な工事現場のカラーコーンとなって、喘息じみた気忙しさで伸び縮みを始めた。どうやら咄嗟には移動出来ない種のようだ。
 その他にも大小無数に駆けずり回る黒い甲虫。産み付けられた卵の群棲地は、白濁色、赤味のある半透明、黄膿色、と幾種類もの気違いじみた彩色で蟲畑を並べ立てている。
 ――怖気が走る、とはこの事だ……。子供に見せたら泣いてしまうぞ、これは。
 重しをどけられた土肌の方を見れば、何処から持ってきたのか動物の肉――まさか人肉ではあるまいが――を後生大事に大腮に咥えてじっと身を潜ませている、髑髏じみた背甲を持つ鍬形虫がいた。いや、本当にクワガタなのか? 中央を盛り上げてひん曲がったせむし男的な胴部からは、底意地の捻れた悪意を感じさせられる。両側に放り出された三対六本の節足は根元が中央に集中して寄っていて、落ち武者の生首が無念げに垂らすざんばら髪のよう。眼に入った瞬間には怨霊の遺骨を掘り当ててしまったかのような、不気味な印象を受けてしまったのだが。
 ――調べる度に新顔が居るな……。……おのれ、人んちの庭先に我が物顔で蔓延りおってからに……!
 それらに殺虫剤のスプレーを吹き掛けながら、歯噛みする。私は元来偏屈な性質で、虫の存在を生理的に許せない。特にこういう岩などの裏でのさのさしている連中を発見すると、痰が喉を込み上げてくる。叶うことなら油をかけて燃やしてしまいたいくらいだ。
 漸く手に入れた都内の一戸建てマイホームにおいても、その嫌悪感との実に六十年以上にも渡る膠漆の付き合いは続いていた。
 前の住人が他所へ引っ越してから大分経っている中古住宅だという話を聞いて、嫌な予感はしていたのだ。条件の良さ――駅から近い交通の便、相場の三割ほど安い値段、などなど諸々――を鑑みて他人に取られない内に、と早々に購入を決めてしまったのは、やはり失敗だったのかもしれない。河川や森が近くにあるならばともかく、ここは都会の真っ只中だぞ、という侮りがあったことも認めよう。
 畢竟。つまり。憤懣やるかたないことに。
 長らく最低限の手入れしかされずに放置されていた新たなる我が家の庭は、侵犯されていた。雑草の如く生い茂った地蟲共によって。文明社会の硬い舗装道路や頻繁に駆除剤を撒かれる街路の茂み等によって、生息圏を奪われた奴らが、避難場所に選んでいるらしく、ちょっとしたコミュニティが築かれているようなのだ。和風庭園かぶれだったと見える前主人が残していった庭石の数々を持ち上げて裏返すと、ご覧の通り、この世の物とは思えない惨状が広がっているのである。
 ――駆除しても駆除しても際限なく湧いてくる屑共が!! 人間様を手間取らせ不快感を与えるしか能のない劣等生物めらが!!
 脳神経を苛む頭痛を堪え、人差し指でノズルのトップを押し込み続ける。上下左右にスプレー缶を動かす手付きは休めず、しかし私は全くの抜本的な解決策が必要だと痛感していた。
 この家に越してきて以降半年間、休日の度に必ずこうして庭の蟲の駆除を行っているのだが、キリが無い。どうも奴らの頭では、新しい主人を得て此処が死刑場になったという事実が飲み込めないらしく、数が減ったという手応えを感じられずにいる。
 何よりこの方法、私自身が大嫌いな虫と対峙しなければならないという点で、かなり劣っているのだ。
「……ヒッ!!」
 岩裏にこびり付く雑蟲の衣から、びょんと長い蘇芳色の触覚が四本突き出ているのを発見してしまった私は、思わず総身を強張らせた。
 ――八つ眼の三葉虫だ! 八つ眼の三葉虫が出た!!
 特にこいつだ。どう見ても古生代から甦ったとしか思えない奇怪な外観を持つこの怪物だけは、何が何でも根絶させねばならない。
 赤茶色の米粒が殺虫剤でボロボロと剥がれ落ちる中から、三日月状に湾曲した鼠色で錨型の頭部が顔を出してくる。その中央、紅くて目立つ複眼らしき目玉が不揃いに並んでいるのを見た私は、生理的嫌悪で震え上がらずにはいられない。まるで不潔な足の裏に生じる発疹のようではないか。万が一触れれば、質の悪い疫病に冒されてしまうに違いない。
 残忍な風貌で、触角は四本。複眼は小さなビーズを火で炙りぶつぶつと形を歪ませたかのようなグロテスクな半球体。それが邪教の伝える狂気の星座の如く、うじゃうじゃと密集して頭部に嵌め込まれている……、悍ましい!! 正視に耐えられなくて、向き合ってまじまじと観察したことなど無いので、眼の数は八つ以上あるのかもしれなかった。
「……死ね……、……死ねっっ!!」
 私は殺虫剤の噴霧を、そいつのいる一点に集中させる。次第に露出してくる人体の脊椎じみた無数に体節のある胴、その両側に一本ずつ節足を生やした醜いM字の羅列。疥癬病を患った海老の尾を連想させる突起物を、これ見よがしにぐいと跳ね上げている尻部へと。
 奴が甲殻の隙間を一斉に開閉させて魚の鰓じみた挙措からゴムの腐ったような悪臭を吐き出すのを見た瞬間、憎悪のあまり少し意識が飛んだ。気がつくと薬缶を放り捨てた私は、傍に置いてあった草刈り鎌を振り上げて無我夢中で幾度も幾度も八つ眼の三葉虫の這いずり回る岩裏へと刃先を叩きつけていた。
「ウガアアアアアアッラァァッッァァァァァァァァァッッッ!!! ここは私の庭だっ、日本国の法律によって定められた所定の手続きに従いっ、この私が正式に占有を認められた所有地だ!! 虫は出ていけっ、貴様等など出て行けェェェエエエエエッッ!!」
 ――はぁ……はぁ……っっ!!
 一度発見すると次から次へと湧き出してくる親指の第一関節大の三葉虫共を粉々の破片になるまで斬り刻んで、それでもまだ閉じた瞼の裏にチェシャ猫笑いの如く奴らの姿がへばりついている。駄目だ、もう耐えられない。私はその後、消火器型の殺虫剤ボンベを物置から持ち出して庭中に液体薬品を散布しながら、一つの決断を下していた。
「雑蟲共の棲み家を根刮ぎ奪い去ってやる……」
 そう呟いて浮かべた笑みが邪悪で獰猛な物であると謗られたとしても、私は痛痒にも感じない。……くふっ、くふふ、見ていろよ、害虫共め!
 ふと気がつくと、千切れて芝生に飛んでいた八つ眼の死骸の頭部が、醜悪に盛り上がった複眼で億劫そうに此方を見遣ってきていた。私はペッと唾を吐きかける。然る後、その上から、土がぬかるんで泥になるまで殺虫剤のシャワーを御馳走し続けた。

 ――ガガガガガガッ!!
 数日後、我が家の庭にはパワフルな建築業者のショベルカーが入っていた。為す術もなく巣ごと掘り返されてダンプトラックに放り込まれていく虫けら共。眺めていると笑いが止まらない。
 彼ら専門家を雇って土を総入れ替えさせるつもりだ。新しい綺麗な土には除虫剤、殺虫剤をふんだんに混入し、その上で抗虫アスファルトで舗装してしまおう。
「そうだ、清潔な都会に地蟲の存在など必要ない。精々追い払われて山にでも帰れ。森にでも逃げ込んで震えていろ。いずれそこも人間様に切り拓かれて貴様等など残らず絶滅させられるのだろうがな!」
 哄笑、歓喜。空港の滑走路もかくやという滑らかで機能的なグレイの庭地。その衛生的に生まれ変わっていく景観は、私に久方ぶりの達成感を与えてくれる。
 全ての工程が終了した日の晩などは、軽い戦勝気分。機嫌良く書斎で書き物を終えた私は、眼の疲れを癒す為にデスクから離れてフローリングの床にごろりと仰向けになった。
 ――次の週末からは自由になるな。何をして過ごそうか……。
 こうすると視界が変わって面白い。下から書名を見上げる本棚、目の高さにある机の脚、等々。靴下を脱いで素足の指を絡み合わせ、健康体操の真似事をしながら首を回す私。
 と、
「――!?」
 何気なく今まで自分が座っていた椅子の裏へ目をやった私は、その途端、床に小判鮫の如く背中を貼り付けたまま金縛りにあってしまった。尻の温もりの残るデスクチェアの裏、そこに瘡蓋の如くびっしりと、茶色く小さなブツブツが盛り上がっている。
 室内蛍光灯の明かりが苦しいのか、最早二度と見ることは無いと思っていた砂利蟲が、擬態を解いてベビーコーン状になり伸縮している。それが私にはまるで、「ハロー」と手を振って嘲弄の挨拶をしてきているように思えた。
 ――雑蟲!? 何でそんな所に?!
 今までそんな輩をぶら下げた席に腰を預けていたのか。そう思うと、尾てい骨やら脹ら脛の辺りやらが粟立つ。硬直から立ち直り飛び起きた私は、とにかく殺虫剤を取りに行こうとスリッパに勢いよく爪先を突っ込――、んだ刹那――、グヂャリ。
「なん……だと……?!」
 履き物に収めた太い足の指。その奥に先客が。鮭のイクラが詰まっていたような錯覚に襲われる。脳裏に赤茶色の米粒が浮かんだ。爪先の圧力であっさりと潰れたそれらが、ヒリヒリと刺激のある体液をじわりと爪と肉の隙間に沁み込ませてくる。
 踝が凍えた。この不快さ、間違いない。中に忍び込んでいた蟲を踏み……っ。
「こ……ごい……っ、こいづ……ラァァァァァッッ!!」
 潰れてはみ出した昆虫の臓器の、まだ生きていて指股で動こうとする小刻みな痙攣。蹴るようにしてスリッパを放り捨てた私は憤怒で肩を打ち震えさせ、猛然と部屋を見回した。
 本棚と壁の隙間、卓上ライトの底、隅に畳まれているYシャツの裏。よくよく目を凝らしてみれば、スッと小さな影が横切っては奥へと消えていく。
 階下からは妻の金切り声と食器を取り落とす音が響いてきた。……まさか工事中、我が家に避難してきていたのか? そして、そのまま棲み着いてしまったということなのか?!
 何処からともなくゴムの腐敗臭じみた饐えた臭いが漂ってくる。私はそこかしこから八つ眼の三葉虫の得体の知れない不気味な視線を感じてしまっている。

(蟲め、蟲め、蟲共めっ。負けるものか!)
 その日から、私の次なる戦いは始まった。
 どうやら家具などで雑然とした人間の住まいは、岩陰を好む雑蟲の面々にとって蛸壺に等しい新天地だったらしい。不遜なる移住者達が我が家の裏という裏に潜り込み始める。
 昼間、私が仕事に出ている間に妻が掃除機をかける場所は、床に加えてテーブルや椅子の裏が追加された。放置していた冷蔵庫や洗濯機の下、洗濯物を溜めておく籠の接地面なども。
 外に出る私とて気が抜けない。奴らはどんなに入念にチェックしていても、スーツのポケットや鞄の中などに忍び込んで来る為だ。
 常在戦場。欠かさず鞄に殺虫剤を常備。発見したら即噴霧。
「だからと言って君っ、お客さんの鞄にまで殺虫剤を浴びせるとは一体どういう了見だね! こらっ、聞いているのか!!」
 留め金の裏に小さな影が差したから消毒してやったまでのこと。感謝されこそすれ、咎められる謂われなどない。人体への害だの何だのと、取るに足らないデメリットをあげつらって文句をがなり立ててくる部長を一睨みで黙らせると、私は定時に退社する。今日もマイホームで雑蟲共との戦いが待っているが故。
(どいつもこいつも目が塞がっている……。都市部とて、うようよと気色の悪い虫が這い回っているというのに!)
 同僚からは精神を病んだ奴と避けられ、近所の子供達には殺虫剤ジジイとからかわれる日々。嘆かわしい。道端で香水代わりに自分に有機リン・スプレーを噴き掛ける様を見る人々も、町内会の会合で一緒になる隣人達も、部長と同様の反応を返してきたのだ。
(ふん、虫を嫌うことが精神疾患の一種だとでも言うのか!)
 唯一の救いは、妻の理解が得られていることか。
 何せ、大学のゼミで大きなヤスデが出た時に私と彼女だけが酷く怖がって、それを仲間に囃し立てられている内に互いを意識、気が合い婚約に至った仲だ。彼女の虫嫌いは私よりも強い。蝶や蜻蛉が飛んでいると言っては、なかなか外にも出たがらないくらいである。
「あのねぇっ、岩蔵さん、奥さんの話なんかいいよっ! 迷惑がられてんの分かる!? じゃっじゃか、じゃっじゃか殺虫剤ばらまいちゃってさぁっ、お隣まで異臭が届いちゃってるじゃない! 薬品臭い、喉が痛くなる、って鈴木のお婆ちゃん困ってるんだよ!!」
 五月蠅い町内会長の爺さんだ。臭いが嫌なら消臭剤を置くなりマスクを付けるなりすればいいだろう。うちはそうしている。それくらいの自己防衛も出来ないのか?
「ちょっと! 引っ越してきたばっかで何て言い草なのさ! 何様だか知んないけど止めろって言ってんの!! あんた軒先で誘導式の固形毒餌も使ってるでしょ? あれね、近所の飼い猫も引き寄せちゃうんだよ! 食べちゃって泡噴くの!! 聞いてんのぉぉっっ?!」
 いい加減に手を離せ! こっちはそれどころではないんだ!
 岩底からの侵略者は隙を伺っている。一見どんなに経路が閉じられていようと、そこが裏であれば必ず侵入を果たしてきた。車のトランク、金庫の内部、きっちり回したと思っていたジャム瓶の蓋の裏っ。一掃を願えば、手を休めている余裕など無いのだ!!
 排熱孔から潜り込まれてパソコンや家電の故障など日常茶飯事。食器家具、床のワックスや壁紙を防虫抗虫仕様に代えてみても、まるで無力。奴ら、耐性を身につけてきている。
「ならば直接潰してやるまでだ。殺してやる……殺してやるぞ……っ、私の住居を侵犯してくる害虫共、如何なる手段を用いても一匹残らず……!!」
 玄関で迂闊に革靴に足を突っ込んでしまった時の、脆弱な殻のぱりぱりと割れる感触が土踏まずから消えないのだ。
 これを想像してみるがいい。入浴しようと手拭いを裸の肩に引っ掛けて、風呂蓋を持ち上げた時、その裏にびっしりと群蟲が貼り付いている様を。まるで、どこぞの鍾乳洞の石筍か、湖面に映った逆様の西洋の城。有機的に連なった蟲土色の氷柱群が、板面を寸詰まりの四角い剣山へと変えている。斜めに傾けると湯滴で滑って崩れて行き、湯船の中にボチャボチャンと落ち広がっていく。大半が焚き熱に当てられて弱っていて、水面を泳ごうとしても直ぐに沈んでいくのだ。運良く縁に突き当たっても、つるつると滑って登れず、やはり同様の運命を辿る。そして芳しかった入浴剤の楽園は泥水の如く濁らされていく。
 騒ぎを聞きつけて桶の底から逃げ出してきた、青白くぶよぶよと膨れ上がった大蜘蛛が、勢い余って私の踵にぶつかり、尻を目掛けて凄まじい勢いで膝裏を駆け昇ってくるあの恐怖。
 夜中に眼を覚ましてふと壁を見たら、盛り上がった黒影が這っていく、あの戦慄。
 頬が痩けたと人が言う。
 眼が怖いと孫が泣く。
 殺虫剤の過剰使用で身体を壊し、抗毒剤の服用を強いられながらも戦いは続いていく。
 元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば裏を埋めるのだ裏を裏を塞げ塞げ塞げ無くせパテでは駄目だ皹が生じるもっと柔らかい決して破損せず微妙な凹凸に自らフィットしていく柔軟な柔軟な柔軟な柔軟な――。
「ウヴ、ヴゥゥ……」
 噂。近所で夜な夜な人攫いが出没するそうだ。
   連れ去られるとプレスで平たく四角く加工され、家具の隙間や下に敷かれてしまう。
   物陰に蟲がつかないように。
 噂。彼らはその状態でも生きている。しかし、喉も肺も潰されていて声が出せない。
 噂。実物を見た。夜道の自動販売機の下で。
   捻れた小指がはみ出して、ぎょろりとした眼球が暗がりの奥から覗いてくるのを。
 噂。彼らは口の中に入ってくる虫を咀嚼して、やっと生き延びている。
   誰かが気づいて救出してくれる、その日まで……。
 ウフフ、そんな目に遭うのは、うちの塀に罵詈雑言を落書きしていく悪童ぐらいのものさ。
 もっとも、連中の鼻っ柱ほどの成果は得られず仕舞いであるが。金庫に詰めたら使えない。瓶の蓋には大き過ぎる。あれではとても全ての裏には対応できなかった。途方に暮れてしまう。いよいよ余人に避けられるようになってきたが、一向に虫が我が家を避ける気配はない。
 そんな状況に、ある日、一つの転機が訪れた。
 きっかけは寝室で遭遇した奇妙な夢である。

(ここは……何処だ?)
 霞のように朧げな私の意識が周囲を見回した。
 苛烈な灼光に満ちた世界。
 見渡す限り茫洋と広がる溶鉱炉の海原。
 チリチリと舞う粒子に嬲られて、ぱさついた額髪がふわりと浮かぶ。乾いた目が潤いを求めて瞬きを繰り返し、そして映し続けるのは、何とも終末的で肝を冷えさせられる光景。
 歪に輪郭を撓ませた様々な形状の柱が、純白に燃え盛る太陽表面を思わせるフレアの大洋を掻き分けて、突兀と天へ向かって聳え立っている。
 あたかも、マングローブ(海漂林)の密林が葉と梢を失い、節くれだった幹だけを伸ばした威容を誇示しているかのようだ。
 その中の一本、円柱の頂上にて。私は押し寄せる熱波に身を炙られながら、四つん這いになって懸命にしがみついていた。狭い。面積は畳半畳ほど、背を丸めて漸く四隅に四肢の先端を引っ掛けられる。頭上にはすれすれの所に天井がある。――そう、この世界には穹(そら)がない。代わりに凸凹とした土色の平面が延々と続いていて、柱達の頭に覆い被さっている。そこに背骨を擦りつけている時だけ、底知れぬ安堵感を得ることが出来た。
 轟音。
 突如、眩しくて概要の見えない焔海の深淵から、二本の動物の足が突き出でて天井を蹴った。伝わってくる衝撃波に背中を打ち据えられる。ビクンと身を竦まされる。その揺れだけでも、ぺちゃんこに潰されてしまいそうな迫力だ。
(何だ……何が始まったのだ……?)夢に特有の不親切な状況案内に焦燥が募る。
 続いて、腰を曲げた巨人らしき影が海面の奥でゆらめき、灼熱の飛沫を上げて腕を伸ばしてきた。両足を食い込ませたまま天井に両手を叩きつける様は、まるでシンクロナイズドスイミングの倒立か、逆さになった飛び込み姿勢のよう。
 そして私の仲間が同じ様な姿勢で這い蹲っている、此処よりもっと太い柱を地響き立ててひっくり返しては、運の悪かった彼らを光で灼き焦がし、致死性の雲を噴き掛けている。
 巨人。轟音。殺戮。
 乗っかっている足場の位置だけが生死を別つ苛酷な環境だ。世界が暗く冷えた時間だけ、私達は天井を逆様に這い、より安全に思える別の場所を探して移動することが出来る。
(これはもしや……雑蟲共が見ている世界なのか?)
 そんな想いが胸中に去来した。しかし、境遇に同情する気には到底なれなかった。
 理由は簡単、視てしまったから。それまで柱だとばかり思っていた隣の構造体の側面に、天井と水平になって巨大な文字が綴られているのを。読書用にと、いつも枕の隣に積み上げている文庫本の書名らが。
 いつのまにか私の乗っている柱も装いを変えていた。広く、素材はふわりと柔らかく、隣には仲間を犇めかせて。腐った熊手の歯に、眼球じみた球体関節を付け加えたような枯れ枝が、力んでいる臍の隣辺りを擽ってきている。私と腹を押しつけ合い、人間と同じ大きさになった八つ眼の三葉虫共がずらずらと居並んでいた。奴らが一斉にこちらを向いてくる。いや、その複眼に映るのも……、この世で最も忌まわしい……っ。
「うわ゛ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
 私は寝汗をびっしょり掻いて飛び起きる。まさかと思いつつ慌てて枕をひっくり返すと……珈琲スプーン先サイズの八眼の悪魔達。夢で見た通り、悍ましい地蟲共が柔らかいクッションの抱擁を受けながら、髪から脂分や汗が浸透した生地にウゾウゾとしがみついていた。
 嗄れた魔女の指先を思わせる穢らわしい剛毛を生やした節足の群れが、ベージュ色の枕の上で跳ね上がり鍵盤を打つ。刺激を受けて、ぞわっと八方に散り始める。
 首筋に鳥肌が立った。跳ね上げた掛け布団からも幾匹もの蟲が逃げ出して行った。
 ――こいつら、とうとう、私の寝床にまで我が物顔でうろつくように……っ!
 狂おしい激情に駆られて晩酌に備え付けているウォッカをぶちまけた。その上に火をつけたマッチを落とす。どのみち、こんな汚染されたベッドを使うことは、もう出来ない。自分の寝床を燃やしていく愚か者を、焼却の難を逃れた三葉虫たちが手近な棚の天板に逆さに引っ付いて嗤っている。
 同時に、頬にぼとぼとと何かが落ちてきて鎖骨に触れたのを感じた私は、天井を見上げて愕然とさせられた。そこにはびっしりと、斑模様の黒い絨毯が張り付いていたのだ。鈴生りの雑蟲共が、嵐に吹かれた砂漠の砂丘か生きている山岳地図の如く濃淡を変えていく。炎上するベッドの明かりに照らされて一部が藻掻き跳ね、粘液の糸を引いて垂れてきては、寝間着の袖口を狙ってくる。それらを払いのけながら、私は忽然と悟らされた。
 ――そうか、この家を一つの岩の裏として認識し始めたのカァァァッッ!!
 みしみしと病的な音を立てて天井が軋む。あの『マスゲーム』共が重いのか、それとも天井裏に目一杯詰まっているのか。
 八つ眼の三葉虫の嗤いが深くなった。この家も燃やすのか、庭と同じく更地にでもするのか、と。……馬鹿め、私はあの悪夢の中で貴様等の弱点を掴んだのだぞ!
 翌日、すぐさま私は、建築会社へ電話をかけた。
 なんでこんな簡単なことに気がつかなかったのか。
 ――ああ、そうだ、そうしてくれ。

 思えばイカロスは慧眼だった。おそらく彼も、父と共に幽閉されていた塔で、石畳を枕に私と同じ夢を見たのだろう。そして、雑蟲共の恐れていた太陽の内側へと、逃亡を図ったのだ。たとえ焼かれて落ちることになったとて、その顔は卑近に迫った安寧の地で過ごすことを夢見、幸福感に包まれていたに違いない。ならば私は、到達できぬ幻想の果てにではなく、この地球の真固上に理想郷を打ち立てて見せよう。
 暗雲の垂れ籠める曇天の日、果たして画期的な新築が完成した。
 道端には黒山の人集り。嬌声のざわめきが敷地上方を指し示している。偉業を成し遂げた夫婦の住まいを驚嘆の念でもって仰いでいる。
「ふふ……生まれて初めての気がするな。こんなにのんびりとした気持ちで過ごすのは」
 私はといえば、透き通った強化ガラスの湯呑みで典雅に朝の緑茶を啜り、勝利の味に浸っていた。両手を添えて顎の辺りに持っていた茶碗を、一息ついてダイニングテーブルに降ろす際に、卓を透けて自分の膝が見える。無色透明なアクリル樹脂製の特注品なのだから、当然だ。椅子も家具も屋敷の建材までも、全てが同様。光の波長を吸収せず、屈折も最低限に抑えた素材で統一している。
 厚みによる僅かな向かい側の歪みと反射光とだけで存在を判別できる、この水晶宮こそが、私の至った結論だった。要するに雑蟲は『裏』の生物なのだ。もしも全ての場所に隈無く光が行き渡り、人の視線が遮られている様な部分が排されれば、奴らは居ることすら叶わないのだ。不愉快な影は、この家の何処にもない。
 放逐された地蟲共の怨念じみた渦巻く雲塊が、天を横切って日光を遮る。無駄だ。この家はプラスチック建材の屋根に発光板を埋め込んでいて、昼夜問わず人工的な明るさを維持し続けている。条件を欠くことはない。夜になれば蛾だの羽虫だのが寄ってくるだろうが心配無用。その為に設置された、カーバメイト系ジェットエア・カーテンだ。
 今にも泣き出しそうな灰色の空模様の元、自前の舞台照明に照らされた我が家が周囲の薄黒い風景から浮かび上がる。本当に隅から隅まで眼を通すことが出来た。スケルトンの冷蔵庫、電源は最新鋭の遠隔ウェーブ送信で、内部機器もオクロルム社のトランスパーレント・テック。保存中の食料は透明パックに入った固形ゼリー食に、蓋やラベルを外した透度のあるペットボトル飲料水のみだ。
 服はモダンでクリアーな抗虫ビニール素材。立ち上がった私が前を向くと、見上げる連中がどよめいた。顰蹙の悲鳴、怒号。町内会長が顔を赤くして喚き散らす。裸同然の格好を公衆の面前に晒すとは何事だ、と。
 ――ふん、貴様等が勝手に家の中を覗いてきているのだろうに。しかも、見ていて首が痛くなりそうなほど此方へ顔を上げて。
 そう。そして極めつけ、我々夫婦は空中で生活を営んでいた。
 喩えるなら弥生時代の高床式倉庫。虫返しのついた柱で地上三メートルの高さに保持されている小屋だ。素晴らしいことに、蟲の犇めく穢らわしく不浄に満ちた大地から隔絶されている。外部との接点は、玄関に備え付けの折り畳み可能な梯子以外には無い。
 傍目には、裸身の夫婦が宙に浮かんでパントマイムをしながら暮らしているようにも見えるだろう。
 罵声を浴びつつ自宅の窓際から群衆を眺め降ろす。テレビカメラが来ていた。人々は珍奇の瞳で集まり続けている。
 馬鹿め! 愚昧共め! 異端者と笑わば笑え! だが、こうすれば地べたを這いずる雑蟲共は侵入して来れないのだ!! 完璧な排除を為し遂げたというのに、何を憚ることがある!!!
 おっと、だからと言って、地上の土地を虫共に明け渡した訳ではないぞ。
「時間だ!」
 ――プシューッゥゥウ!! 貯農薬槽のタイマーが入る。希釈して湛えられていた液体が、小屋の下部に設置された大型ノズルから霧状になって地上へと散布された。もうもうと立ち籠める白煙。見惚れるほど美しいジクロルボスの浄化虹。強さは家庭用とは比べ物にならない。くく、人間まで口を押さえて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っているではないか。
 これで……これで漸く私は雑蟲を完全に駆除することが出来たのだ!!
「ハヒャハハハッッ、ヒャァァッハァァッ!! ュフワヒャァァァァッハァアアアアアッッハハハハッアヒャアヒャビャビャアビャヒャバババブァララブァァァァァァッッッ!!!」
 さぁて、今日は会社の休暇を取った。ハンモックで一眠りでもするかぁ。
 何だ? パトカーが大挙して押し寄せてきたな。中からお巡りがぞろぞろと……。
 っ! 傷害、拉致暴行、並びに猥褻物陳列罪で逮捕だと!? ふざけるな、昆虫の不法侵入は取り締まらない癖に何を言っている!! ええい、そんな何処に蟲を飼っているとも知れない紺色の制服で上がってこようとするな!
 ドンドンドンドンッッ!!
 私は慌てて玄関に立ち塞がった。蛮声をあげた警官隊は持参の梯子を使って高みにある玄関に取り付き、乱暴に扉をこじ開けようとしてくる。さては貴様等、雑蟲の手先か。あいつらを力ずくで侵入させようというのだな! 必死で入り口のノブを押さえる私だ。荒々しく背後の連れ合いに呼びかける。おい、何か武器になりそうな物を取ってくれ!!
 ドスンッッドスンッッ!!
 繰り返される体当たりが扉を内側に撓ませる。悔しい、悔しいっ。そんな害虫を見るような目で私を見るな!! 社会の敵みたいな扱いをしやがって!!!
 音が激しいものだから、やたらと耳が痒くなってくる。まるで細い毛で擽られているかのようだ。緊張の余り、喉も少しいがらっぽくなってきた。
 妻が息を呑んで狼狽えている気配。大丈夫だ。こんな奴ら、すぐに追い払ってやる!
 ん……、これは彼女が腰のスカートを慌てて脱ぐビニール擦れの音か?
 あの棚をまさぐる音には聞き覚えがある。林檎などを剥く際に、戸を開けて果物ナイフを取り出す音だ。透明過ぎてなかなか見つからず、手探りになってしまう音……。そうだ、急いでくれ、大至急っ。そろそろ押し破られてしまうっ!
 目的の物を探り当てた女房が、私の背中に駆け寄ってきて泣きながらすがりつく。
 どうした? 早く渡してくれっ。何だと? 何を口走っているっ? あそこの中に?!
 ――待て! その薄く研がれた刃で何処をほじくるつもりだ!?
 衆人環視の中、私の後ろで狂った絶叫をあげた妻が、よたよたと数歩後ずさる。そして激しく腰を振って凶器を脚の間に突き立てたようだった。迸った鮮血が私の足元にまで広がってくる。
 ああ、赤くしてしまうのは駄目だ。光が遮られて、裏側に奴らが……。
 心配で堪らないが、私が無事に彼女の元へ辿り着いて行為を止められるかは分からない。何故ならば、目撃してしまったからだ。懸命に両腕を扉に突いて侵入を押し留めている警官共の形相の手前、透き通った平面に映った自分の顔を。上瞼から睫毛に混じって幾本も、びょんと長い蘇芳色の触覚が生えているのを。嗚呼、目の裏がゴロゴロとする……。
 何処かで絞め殺された鶏が、断末摩の絶恨を放った。俄におどろおどろしい甲走った鳴き声が響き渡り、硝子張りの我が家を震わせてくる。よく聞けば、それは、粘ついて蠢くダマを作り始めた私の唾液の、飲み込みきれず菌糸状に張って咽頭を塞いでいる箇所の隙間から、洞窟の割れ目を吹き抜ける突風の如く搾り出されている自身の呼気であった。
 同時に突如、生暖かい瘡蓋のような物が顔面に被さってきて、視界を塞がれる。考えるまでもない。これは、極度の恐怖で巌の如く強張った、自分自身の両掌だ。薬剤の汚染でひび割れた爪が、奥の異物を追い出そうと、瞳の虹彩の表面を虚しく削る。
「グァ……ァァァァァァァァッッッォォオオオオオオ…………ッッ!! ヅ――ァ、ァピィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッッッ?!!」
 気がつけば、不逞な圧力に逆らっていた腕を離してしまっている。が、最早、衝動的なこの一連の動作は止めようのない不可逆の領域に入ってしまっていたのだ。
 ゴガンッ!! ついに玄関が破られた。雪崩れ込んでくる捕縛隊。身を翻して洗面所へ飛び込もうとした私をあっという間に組み伏せて、床に押しつけてくる。待ってくれ、先に先に、せめて先にあそこの剃刀を取らせてくれ……! 頼む、頼む頼む頼む……っっ!!
 ――畜生、まだ避難先はあったのか!!!
 眼球の裏にいて姿は視神経を通らない筈なのに、奴の嗤いが脳裏に描き出された。官憲に囚われ、これから自傷行為の一切を禁じられるであろう私達を嘲笑う。
 やはり八つより眼が多い――。



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